三豊を知りつくし、伝えつくす!森さくらさん(前編)
2011年秋に「週刊みとよほんまモンRadio!」のブログが始まってから10年半。立ち上げ当初から担当してきた「さくらさん」が、2022年3月いっぱいで番組ブロガーを卒業しました。三豊とともに歩んだご自身の10年を振り返ります。
前編では、ブログライターとしての10年間のお話についてお伺いします!
がむしゃらに取材をはじめて
★まずは10年半に及ぶ取材、お疲れさまでした。このブログのお仕事を通して、すっかり「三豊オタク」になったそうですね。
ブログを担当し始めてから、365日ずっと「三豊のこと」を考えていました(笑)。
10年半になるので、約3830日!? ブログには原稿3,000本以上「三豊ネタ」を書いたことになりますね。
★ブログのライターなどは経験があったのですか?
実は「書くこと」「発信すること」について、誰からも教わることもないまま始まったんです。ブログが始まった2011年当時は「ブログは特別な人が書くもの」という時代で、私みたいな素人が書いていいのかと怖かったことを覚えています。文章の書き方や写真の撮り方など、すべて試行錯誤でした。
★三豊市内の情報は、どうやって探し出したのですか?
当初は「1日に1本情報を発信する」という条件だけが決まってのスタートでした。なので、毎日なにかしらの違うネタを紹介するために、市内のイベントやお店情報などネタを探しまわりました。手探りしながら足で探した毎日でした。
ちょうど三豊市内はイベントやお店も活気づいてきていたタイミングでしたので常に新しい情報が溢れていましたし、「きれいだな」と思っていた近くの草花のことや山歩きの情報など、目を向ければたくさんのネタがありました。だから、そんなにネタがないと困ったことはありませんでした。ちょっとさぼりますと「ネタがない…」となることもありましたが・・・(笑)。
さらに、取材で出会った皆さんが、ブログの記事や番組を応援してくれたことも大きな力になりました。新しいことに挑戦している前向きなお話を伺うと「もっと応援したい!」って思えますよね! なので、私が、取材をさせていただいた方の一番のファンになって、ブログを書いていました。
★取材の中で、辛かったこと、苦い思い出もあるのではないですか
そうですね。スタートからすぐの頃、お寺の取材で叱られたことがありました。気楽に取材に伺ったら「何も勉強しないで来たんだね」とビシッと言われて、思いがけず「帰りなさい」となりました。その時はとても恥ずかしい思いをしましたが、振り返れば良い経験だったと思います。
10年の間には「しんどいな・・・」と思う時もあったのですが、続けたことでわかったこともありました。その一つが私の気持ちとブログのアクセス数の関係です。不思議ですが、私が気持ちよく書いた時ってアクセス数が伸びることが多かったんです。
ネット上の記事かもしれないけれど、発信したいと思う想いや熱量って伝わるんだなと感じて、「ブログも生きてる?!」と思ったほどです。
★10年間の間、心がけていたことは、どんなことでしょうか。
「三豊を知り尽くす」と言ったらいいでしょうか。例えばカフェの紹介でも、市内全部のカフェのことを知りたいと考えていました。全部わかっていたら、「こんな場面ならここ」「こんな人にはこちら」という具合に、相手や場面に応じてベストの提案ができるかなと思っていました。
そして、私が「知っている」だけでは伝わらないので、記事(文章)にしなければなりません。その「文章にする」プロセスがとても苦しかったこともありました。でも「伝えたい」という想いから、勉強して迷って悩んで書いてみる。さらにみなさんの反応から改めて勉強して書いてみるの繰り返しでした。「伝える」が「伝わる」になるには高い壁があることも学びました。
「なにを伝えるか」はいつも考えどころでしたが、ときには広く浅くしか掴みきれていない自分に「私は浅いな~」と悩んだこともありました。基本的には楽しく挑戦することを心がけていましたが、挑戦するからこそそんな悩みもありました。
地域で何ができるか考え始めた
★ブログの仕事を通じて、地域の活動にもつながっていったんですね。
ブログの仕事に余裕が出てきた4年目くらい、三豊市役所の主導で「三豊市観光基本計画」を作成する委員にお声掛けいただきました。元々観光の仕事には興味があったので、出来ることはやりたいと積極的に関わらせてもらいました。
そして、委員活動が終わった後にも、中心的に活動していたメンバーたちと、「三豊100年観光会議」という市民団体を立ち上げ、副会長をさせていただきました。地域と観光に関するボランティア的な活動も多かったのですが、メンバーの方たちと三豊の観光を考える中で「私には何ができるのだろうか?」と考え始める大きなきっかけとなりました。
三豊に住む前は旅行業で働いていましたし、移住後は料理の勉強や飲食店での仕事をしていました。それらの経験を活かし、好きで得意だった「食と旅」に関することでなにかできると考えました。ちょうど、三豊に観光に来てくれる人を増やして生きたいという時でしたので、「三豊へ来る方への『おもてなし』は何ができるだろうか?」という視点で周囲を見るようになったのはこの頃からです。
★移住に関する活動もされていたとお伺いました
私が三豊に住み始めた2007年頃は、移住者が気軽に足を運んだり、人と会える場所があまりありませんでした。その時の想いもあり、2017年から移住者の人たちが中心となって運営するカフェにも関わらせていただきました。
現在、三豊で活躍さているカレーの「風凛堂」、コーヒーとサンドイッチの「HAKO珈琲」など、他にもこの時にご一緒したメンバーの皆さんが、今も三豊市内で活躍してくれていることは、とても嬉しく思っています。実は私も「さくらの森」という名前で、外国料理などのランチを出していました・・・(笑)
この時に食に関する仕事を経験したことももちろんなのですが、三豊が好きになって移住された方たちとたくさん交流できたことがよかったです。彼ら彼女たちから「三豊の良さ」に改めて気づくことができました。現在は移住者向けの「GATE」や「財TURN」といった組織ができるなど、色々な整備が進んできてあったかい地域になってるよな~と感じています。
★柔軟なやり方がいいなと思います。他には、どんなお仕事を手掛けられましたか。
最近関わらせてもらったのは、2021年1月にオープンした一棟貸しの宿「URASHIMA VILLAGE」で、「浦島の玉手箱」という食事サービスの開発チームの一員として関わらせていただきました。
ポイントは荘内半島に伝わる「浦島伝説」と「三豊の食材のおいしさ」を活かすことでした。いろいろ検討した結果「蒸し料理」にして、お部屋にお届けしたセットをお客様がお湯を沸かして蒸すだけ楽しめる仕掛けを考えました。蒸す時にせいろから湯気が上がる様子がまさに玉手箱なんです! 蒸しあがった地元の鯛や野菜がとても美味しいと好評いただいていると聞いています。
★「URASHIMA VILLAGE」の仕事から、次の仕事につながる展開もあったそうですね。
「浦島の玉手箱」の食材準備やオペレーションには、仁尾町で古くから営業されているショッピングストア今川のご協力をいただいています。玉手箱の検討段階で、お惣菜を作っているお母さん達と仲良くなれたのが嬉しかったですね。これからも一緒に地域に必要とされるメニューを考えていけたら嬉しいなと話しています。さらに、これからは、お惣菜の中身だけでなく、プラスチック容器のことなど、環境のことも一緒に考えていけたらいいなと思っています。
ブロガーとして三豊をくまなく回るうちに、新しい価値の作り方や働き方もキャッチしてきたさくらさん。そこには、「三豊のそこにある魅力」を大切にするコンセプトが貫かれていました。後編では、さくらさんが三豊にやってくるまでの物語と未来のお仕事について伺います。